いちごの王さまからのメッセージ

8月のメッセージ

 お互いに争わずになかよく助け合って生きていくことが、今、この世界にとって本当に大切なことなのです。

 いちごメイトのみなさん、元気に頑張っていますか? 一昨年と昨年の夏休みはコロナのせいで自粛しなければならなくて、今となっては思い出作りが出来なかったことが逆に思い出になっているという、なんとも皮肉な感じです。
 でも、辛抱の甲斐あって、ようやく乗り越えつつある感じがするので、今年はみんなに楽しい夏を過ごしてほしいと願っています。

 さて、王さまは今年も8月号のメッセージを書くために机に向かい、「やっぱりあの夏のことを書かなくては!」という気持ちでいます。王さまが毎年8月号に書いている戦争体験を読んだことのない人には知ってもらいたいし、何回も読んだことのある人にも、もう一度真剣に考えてみてほしいからです。

 今から77年前の1945年、王さまが高等工業学校(現在の大学)1年生だった時のことです。当時、日本は第二次世界大戦の最中にありました。
 王さまは山梨県甲府市で生まれ育ち、その年から群馬県桐生市の学校に行っていたのですが、その日(7月7日)は、たまたま実家に帰省していました。
 甲府は東西南北を山々に囲まれた盆地で、果物が特産物の長閑な所です。王さまは、その日の昼間は地元の友だちの家にさくらんぼ採りに行き、夕方帰宅しました。
 その夜でした。甲府の町に空襲警報が鳴り響いたのは。慌てて、窓から外を見ると、東の空が真っ赤になっていました。爆撃機ボーイング29型機(B29)が飛んできて、突然、焼夷弾をバラバラと落とし始めたのです。王さまは「とにかく逃げなくては!」と、幼い妹を負ぶって家を飛び出しました。恐ろしい爆音とともに頭上に焼夷弾が雨のように降ってきました。すぐ近くにいた人の服に火の粉が付いて燃え上がるのが見えました。貯水槽に女の人が赤ちゃんを守ろうと覆い被さって背中を焼かれて死んでいるのを見ました。木造の住宅は火が付いて火事になり、どんどん燃え広がっていました。あちこちで火の手が上がり、熱くて熱くてたまらず、臭いドブ川に浸かりながら、一晩中逃げ回りました。あの熱さと恐怖を想い出すだけで息が苦しくなってきます。
 夜が明けると、火は煙だけになっていました。甲府の町は約70%が焼け落ち、たくさんの人が死んでいました。王さまは、どうして甲府に爆弾を落とされなければならなかったのか、なぜ甲府の善良な市民たちが家を焼かれて死んでいかなければならないのか、分かりませんでした。誰に聞いても「戦争だから仕方がない」と言うのです。
 “人と人とが殺し合うなんて、絶対に間違っている。なのに「戦争だから仕方がない」で済ませるなんて、なんて恐ろしいことだろう”と王さまは思いました。そして、この経験から、王さまは、「戦争はあってはならないことだ。お互いに争わずに仲良く助け合っていくことが本当に大切なことなんだ」と真剣に考えるようになり、みんなが仲良くなるための会社を作りました。それがサンリオです。

 先日、ある人が王さまに「王さまの戦争体験を家族に話したら、僕の伯父さんも原爆の日に広島にいたことを知りました」と、その伯父さんが書いた戦争体験記を持ってきてくれました。王さまよりも8歳年下で広島に住んでいた彼の伯父さんは、満9歳の時に家族と離れて山奥の農村で暮らす集団疎開に行かされました。それがどういうことなのか、意味も重大性も理解できないまま、遠足のような気持ちで出かけたこと、それが家族との一生の別れになってしまうことなど想像もしていなかったことを当時の気持ちのままに書いてありました。断片的に伝えられる戦況への不安、だんだん貧しくなる食事、募る寂しさに耐えながら過ごしていた少年の気持ちが、王さまには手書きの原稿から切々と伝わってきました。
 彼の伯父さんは疎開をしていたので助かりましたが、戦争が終わって戻ってきた自宅があった場所は焼け跡で、そこで亡くなっていた大好きだったおばあちゃん、お母さん、弟を探して埋葬しなければならなかった悲しみはどんなに大きかったことかと想像するだけで胸が張り裂けそうになりました。

 戦争とはそういうことなのです。残虐で理不尽で間違っているのです。
 戦争を体験した人はその恐ろしさ、無意味さを後世に伝えて、「人と人が殺しあう戦争は絶対にやめなければならない。みんな同じ人間なのだから仲良く助け合っていく世界を作ろうよ!」って、もっともっと声を大にして言わなければならないと王さまは今、改めて心の底から強く強く思っています。

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